博多遠征(前編)

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日本アメリカ文学会全国大会(@西南学院大学)に行ってきました。

初日はホーソーン・メルヴィル部屋に張りついて、発表を4つ拝聴。

1つめはThe House of the Seven Gablesとフリー・ラヴ思想の関連を論じたもの。
フリー・ラヴ思想では、フーリエ主義における制度批判からスピリチュアリズム(例えばAndrew Jackson Davis)やその他のラディカリズムによる廃止論まで結婚の問題と財産の問題が議論されてきた。*よりラディカルなフリー・ラヴ思想では、性的関係における女の優位性が論じられた。女に選択権があるとする考え方は「女が許しさえすれば、複数の男と関係を持てる」といった解釈にもつながることなどから、”respectability”を求めるミドル・クラスの理想はフリー・ラヴ思想を敵視した。
HSGでは、フリー・ラヴ思想と”respectability”を求めるミドル・クラス性が随所に見られ、とくにフィービーは、性的純血という形でフリー・ラヴ思想の理想(=”選択権を持つのは女”)を体現すると同時にミドル・クラス性も持ち合わせている者として描かれている。さらに、ラディカルな社会改革運動とミドル・クラスの精神性というアンビヴァレンスは、フィービーとホルグレーブの結婚という幸福ではあるが唐突な結論に現れているとのこと。
*女が財産権を取得し経済的に自立できれば女が隷属状態に甘んじなくてもよくなるため、結婚と財産の問題は不可分。

2つめは、教育媒体としてのA Wonder Book for Girls and Boysを論じたもの。とくに、”The Gorgon’s Head”での母性の強調(ダナエの受胎の場面はほぼ省略され、脱エロス化されている)、”Chimera”での冒険・成功物語の強調といったテーマの書き換えを分析。

3つめは、メルヴィルの”The Piazza”で描かれる政治言説を当時の住宅建築事情を足がかりに論じたもの。
そもそも”piazza”は、イタリアで都市の中心として機能する広場として登場した(見る/見られる関係は無し)ものだが、Inigo Jonesによりイギリスの劇場空間へと導入され(見る/見られる関係が発生)、さらにアメリカに渡るとベランダとして導入される(ボックス席的なものへと変化)。
“The Piazza”では見る/見られるの関係の逆転が提示されておらず、メルヴィルの”piazza”はパースペクティブが固定されないもので、特定の体系に回収されるものでもないとのこと。
個人的には政治言説との関連をさらに詳しくうかがいたいところでしたが、質疑応答では「そもそも、なんで”piazza”という語を使うのさ!」という話で盛り上がる。この点は、聞けば聞くほど、たしかに不思議。

4つめは、Billy Buddと晩年の詩(John Marr所収のもの・Weeds and Wildingsに所収のもの)を平水夫とバラというモチーフから論じたもの。
Billy Buddにおいて、ビリーは改宗を拒否し蛮人として処刑されるが、そこでビリーは汚れなき魂を持つ者として描写される。ビリーの汚れのなさは、公に出された報告書では著しく歪められる。しかしながら、この報告書は程なく忘れ去られ、平水夫が歌い継いだバラッドの中でビリーは美しき者として復活を遂げる。ビリーの美しさと結びつけられるものがバラであり、ビリーの昇天はつぼみであったビリーの美しさが一気に開花したこと、さらには、ビリーの美しさが切り花としてのものではなくエッセンスなのだ**ということを示すものだとのこと。
**切り花だのエッセンスだのというのは、Weeds and Wildingsの中で出てくる

社会改革運動に対する興味がをさらに膨らませるとともに、詩を読みこむ(しかも可及的速やかに)必要を強く感じた初日でありました。

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